たをやめ、時々ますらを

記憶に残るアニメと、忘れられていくアニメとに敬意と愛を示していきたい。

ぼくたちは勉強ができないのマルチエンディングに物申したいだけ

オタクは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の作者を除かなければならぬと決意した。オタクには漫画がわからぬ。オタクは、村のキモオタである。アニメを見、漫画を読んで暮して来た。けれどもクソエンドに対しては、人一倍に敏感であった。

 

賛否両論が噴出している『ぼくたちは勉強ができない』のマルチエンディング採用について、"否"サイドの立場から物申したいだけの記事。歓迎しているオタクがいるのもわかっているし、その気持ちもわからないでもないけれども、これに関してぼくは断固としてNOの立場から物申したい。あくまでも個人の意見であることはご承知頂きたい。あと半ギレで書き殴っているので論理の破綻、文章の破綻は勘弁してほしい。

 

先に言っておくとぼくは『ぼくたちは勉強ができない』に関してさして思い入れはない。連載1話からなんとはなしに全話読んで、アニメも一応見ていた程度なので特別ファンというわけでもない。

じゃあ何故わざわざ物申しオタクになっているのかといえば、「五等分の花嫁もマルチエンディングでやるべきだった」などというクソバカ共が愚にもつかない脳みそがあるとは到底思えない主張をしているのがツイッターで散見され、ブチギレたためである。

 

賛成派の意見は見たところ大別して2つ、「自分の推しヒロインの幸せなところが確実に見られる(全ヒロインが幸せになれる)なんて最高」「ギャルゲーでもルート分岐はあるんだからラブコメ漫画でやるのも自然」のように見受けられる。これは両方とも決して間違ってはいないと思うがシンプルにぼくは受け入れられない。以下理由。

 

 

・全ヒロインが幸せになれる

これは非常にわかる。幾多の選ばれなかったヒロインを応援してきた身としてもすごくよくわかる。自分の好きなヒロインに幸せになってもらいたい、とても自然なオタク感情だ。

ただ、選ばれなかったヒロイン達が選ばれなかった故に選んだ道、覚悟、決意はどこにいってしまうのか。選ばれなかったからこそ得られたもの、選ばれなかったからこそ選べた道を根こそぎなかったことにして、はい別のルートでは幸せになれましたではあまりにもかわいそうすぎる。彼女たちの決意は無意味なものか?

ぼく勉で言えば文乃の涙は何だったんだってなるだろ。

あと、全員が特別になるってことは誰も特別にならないのと一緒だと思うよ。一人一回一位になるまで走る徒競走みたいなそんな勝利価値ないでしょ。

 

・ギャルゲーはルート分岐がある

これに関しては漫画でやるのと全く意味が違うと考えている。

ギャルゲーの主人公は基本的にはプレイヤーの選択によって行動を決定する。つまり主人公はプレイヤーの分身であると言って言い過ぎではないと思う。すなわち、行動の責任はプレイヤーに帰属する。特定のヒロインを選ぶのも、特定のヒロインを選ばないのも全てプレイヤーの責任になる。上で述べた選ばれなかったヒロイン達が選ばれなかった時に選んだもの、それを無駄にするのもそれを尊重して他のルートをやらないのも、全てプレイヤーが責任を負う。

漫画は違う。意志を持ったひとりの主人公が読者とは別のところに存在していて、彼が責任を持って選択した道がその漫画のエンディングにつながる。漫画でマルチエンディングをやることは、主人公から意志を奪い取ることだと思っている。主人公が自らの考えで選んだ道はどうなる?シナリオの奴隷だ。

漫画にはギャルゲーと違って責任を取るプレイヤーはいない。ただ複数のヒロインに毎回別のルートでいい顔をする主人公がいるだけになる。好きになれないだろ、そんな主人公。

 

うるかエンドで漫画は終わらせて、ゲーム化してifルートで各ヒロインをやるんだったらよかったのにね。

 

 

まあぼく勉に関してはそれなりに売れているわけだし多分無茶苦茶になりすぎない範囲で引き伸ばす手段としてマルチエンディングが採られたっていうのもなくはないだろうし、それぞれのヒロインのファンに配慮するっていうのもあったんだろうと思う。ぼくは嫌いだけど絶対にやっちゃいけないやり方でもないとは思う。ぼくは受け入れられないけど。

 

 

とにかく五等分の花嫁がマルチエンディングにならなくてよかった〜!おわり!